コンサート情報

祈る人 プログラム解説


チラシだけですと内容が分かりにくいので、
こちらに、当日配布予定のプログラム解説も掲載します。
ご興味を持っていただければ幸いです!

プログラム解説

● 旅へ出発
 今回のあいちトリエンナーレでは「創造しながら旅(キャラバン)を続ける人間」という大きなテーマが掲げられています。私たち人間は太古の時代より今まで何を想い、何を考え、どのような創造の歴史を辿ってきたのでしょうか。そして、私たちのこれからの「創造の旅」はどこへ向かうのでしょうか。
 今宵はそんな旅=キャラバンの一つへ皆様と共に出発します。コンサートホールの中ですので長い旅にはなりませんし、たくさんの世界へはご案内できません。しかし、一つの舞台を通して精神の奥底から宇宙の果てまでの、時空を超えた深い心の旅へご案内したいと思っています。
 また、5階ロビーには木で創られた音の出る造形作品「渦巻樹」と「スパイラルロード」が展示されています。是非、旅の前や合間、後にご覧になって、手にとって、感じ、楽しんでください。この旅への期待と余韻をより深く味わっていただけるはずです。

● 創造と祈り
 「創造」とは、「新たに造ること。新しいものを造りはじめること。(広辞苑)」とされています。しかし、新しいものを創りだす前には創りだしたいものをイメージ=想像しなければなりません。思考や想像は人の心や頭の中でされますが、何れにしろ、こうではないかと推し量ったり思い浮かべたりすることです。
 その中でも、「こうであったらいい」、「そうなればいい」と願い、「なぜ望むように進まないのか」、「なぜ不幸が訪れるのか」と難じ、さらには「なぜ自分はここにいるのか」、「なぜ生死があるのか」、「家族・民族の繁栄」、「社会・世界の在り方」等という根本的な問いかけが「祈り」へとつながっているのではないでしょうか。
 「祈る」ということは、どこへ、誰へ向けられたものだとしても、目に見えないものへの語りかけであり、問いかけであり、願いを投げかけるものです。また、人間は目に見えないものを想像し、願望することによって創造を繰り返してきました。歴史を通して続けられてきた人間の心の旅は創造の旅でもあり、これからも続けられていくものではないでしょうか。この思いからタイトルの前半を「Homo Orans=祈る人」としました。
 そして、パイプオルガンは「祈り」の楽器でもあります。祈りの楽器と、同じく祈りから発祥した舞踊、歌を音楽的な要素の中心に据えてみました。パイプオルガンが故郷とするキリスト教の祈りだけではなく、地球に存在する多くの民族の祈りをこの旅の中で随体験し、一つの想い・祈りとして未来へつなげることはできないか、そんなことを考え「Harmonia Mundi=世界の調和」としました。

● プログラムの形式
 あいちトリエンナーレ2016のシンボルデザインは9つの線から成り立っています。本公演も1つの舞台芸術を9つの部分に分けました。9の部分はそれぞれ3つのまとまりとなり、1つの章を成り立たせています。3という数字は、諸々の民族や宗教で「過去・現在・未来」、「朝、昼、夜」「天上、地上、地下」「陸、海、空」等を現し、聖なる数字とされています。
 本公演では、「第一章 旅するもの」「第二章 生きとし生けるもの」「第三章 永遠なるもの」としました。
「旅するもの」では、ここ地上での私たちについて、「生きとし生けるもの」は私たちが生かされている世界と宇宙について、「永遠なるもの」は私たちの想像する見えない世界=祈りの行先(の一つの可能性)と、私たちのこれからの創造(の一つの可能性)について、それぞれ思いを馳せたいと思います。

● プログラムの内容
◎ プロローグ(開場後、皆様がご入場される間に演奏します)
 開場後に演奏されるジョーン・ケージの「ASLSP」はAs slow as possible(できるだけ遅く)という言葉の略です。作曲者によって明確な演奏時間は指定されていませんが、現在ドイツ・ハルバーシュタットの旧教会内で進められているプロジェクトは2001年に始まり2640年に演奏終了が予定されている程です。本公演=今日の旅に先立ちこの作品の一部分を25分ほど演奏することにより、皆様に「時間」という観念について想いを馳せていただきたく選曲しました。

第一章 旅するもの
◎ I アボリジニの祈り
 「第一章 旅するもの」では、先ずオーストラリア先住民アボリジニの格言に耳を傾けます。私はここで、何の為に生きているのだろう、と、誰もが一度は思ったことではないでしょうか。このことばを聴いてみてから、もう一度、何の為に生きているのだろう、と、考えてみませんか?そして、「故郷」とは?
◎ II キリエ・エレイソン
 「キリエ・エレイソン=主よ、顧みて下さい/憐れんでください」とは、古代ギリシャ時代に民衆が王を讃えた歓呼の呼びかけでした。ギリシャでは「主=現世の王」を意味したものが、初期キリスト教で「主=神」と意味が置き換えられたまま受け継がれ、キリスト教ではどの機会にも欠かせない祈りのことばとなりました。
 最初に「連祷」をお聴きいただきます。同じような旋律が果てしなく繰り返される数珠のような原始的な祈りですが、昔は、文字の読めない人でも同じ文句で答えることにより「祈り」に行動的に参加できる重要な方法でした。
 そして、「キリエ」という祈りも時代を通して変化します。連祷ではオウム返しの様に歌うことができた簡単な旋律には、時代と共にキリエの「エ」が長く引き伸ばされ、複雑な旋律がつきます。母音を引き延ばして多くの音を歌うことを「メリスマ唱」と言いますが、これは、祈りの心をより深く表わそうとしたことから起こっています。中世になると、メリスマの部分にことばを新しく付け加えて創作をし、賛美の心を表わそうとするようになります。新しい部分はカトリック教会の言語であるラテン語で創られました。これは「進句(Tropus)」と呼ばれます。
 16世紀末になると宗教改革が起こります。それまでカトリック教会の中ではラテン語しか使われなかったので、一般の民衆は典礼の内容を全て理解することができませんでした。マルティン・ルター(1483-1546)は宗教改革の一環として、ラテン語の歌をドイツ語に翻訳しましたが、本日歌われるキリエの進句もその時からプロテスタント教会で、ドイツ語で歌われるようになりました。
 ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685-1750)はプロテスタント教会音楽家として多くのルター賛美歌の旋律を基に、オルガンの為の作品を創りました。グレゴリオ聖歌隊が歌う「グレゴリオ聖歌メリスマ唱- 進句 – ルター賛美歌」に続いて同じ旋律を曲の中に織り込んだパイプオルガン作品をお聴きいただきます。
 「キリエ」というシンプルな祈りも、時代と共に、その時代に生きる人と共に、形を少しずつ変化させながら、人々の祈りにいつも寄り添っているのです。
◎ III マヤ・シャーマンのことば
 私たちは一瞬ごとの選択と経験を積み重ねながら生きています。過去の選択が現在を創り、現在の選択が未来を動かします。しかし「一瞬」や「永遠」と言った言葉に表される時間とはいったい何なのでしょう。
 一つの解釈として、「時間とは生命の瞬間の連続であり、世界に生命を与えるもの」であり、「生命の根源的なエネルギーとしてこの宇宙に存在する」という、哲学者でありマヤ・シャーマンでもあるヴィクトリアーノ・アルヴァレス・ファレスの言葉をお借りしました。*1 
 マヤ文明では、時の間に生きる私たちの人生が、「時計によって支配されるものではなく、無常に去って無に帰すものでもなく、創造的なエネルギーの根源を受け取っているもの」*2、とされています。
 また、祈りの文化・宗教であるマヤの伝統は、二つの異質なものが協力関係にある中に調和が起こるという二元論を重要視しますが*3、祈りも「父なる天空」「母なる大地」の二大原理に捧げられます。本作品の中でも、同じ鍵盤楽器でありながら全く異質なピアノ(独:der Flügel=男性名詞。音楽的には「グランドピアノ」を指しますが、「翼」の意味もあります。)とパイプオルガン(独:die Orgel=女性名詞)という2台の楽器で、永遠の動き(perpetuum mobile)が表現されています。3人の舞踊群も一人一人が「過去」「現在」「未来」を表現して踊ります。

第二章「生きとし生けるもの」
◎ IV 森羅万象
 前章では地上で時間を旅する私たちという存在に目を向けましたが、第二章では、私たちの生きている空間に目を向けたいと思います。そもそもこの世界は、どういうところなのでしょう?
 ヨハネによる福音(新約聖書)の冒頭には「初めに言があった。」と書かれています。「言(ことば)」は「ロゴス」というギリシャ語です。ギリシャ語の「ロゴス」の中には「言葉」と「理性」という意味が含まれています。そして神の「ロゴス」はイエスという人間によってこの世界に生まれた、即ち、神がこの世界に現れたということです。そして「ことば」は「響くもの」、「音」でもあります。聖書の「言」の部分を「響き」と置き換えて読んでみるとどうなるでしょう?
 今回は、三河出身の船乗りで、船の難破・漂流後マカオでドイツ人宣教師ギュツラフと共に聖書を翻訳し、尾張弁もところどころにみられる最古の日本語聖書版を朗読していただきます。朗読の松本喜臣氏は「にっぽん音吉物語」の上演をライフワークともされている他、日本聖書協会発行のギュツラフ版聖書の朗読録音も行っていらっしゃいます。
 続いてソプラノによって歌われる仮名序では、森羅万象は歌を歌っている、即ち可視界と不可視界の両方が歌いつつ歌に反応しつつ存在していると述べられています。歌はいのちであり、いのちあるもの、生きとし生けるものは歌を歌います。そして、歌は響きであり、響きはことばでもあります。
 アステカ神話に依れば、神が世界を創造したと願った時に「歌った」とされています。
 聖書、平安時代の日本、アステカ神話……。一見すると全く関係のないような3つの世界観ですが、「言」、「歌」、「音」、「響き」が世界を創り世界に在る、すなわち森羅万象を創り、動かしている、という共通点を取り上げてみました。そのほかにも、世界が音として始まったと伝えている神話や伝説、物語は数え切れないほど世界各国にあります。
◎ V 星、月、太陽
 世界は響きで創造され、森羅万象が響いているように、生きとし生きるものの体内の原子や分子も決まったサイクルで振動し、響きあっているのではないでしょうか。また、ピタゴラスやケプラーが提唱したように、協和する音程比率の関係は太陽からそれぞれの惑星までの距離の比に当てはまり、惑星自身も音を発し協和しあっていると言われています。宇宙も振動しています。響いています。
 ここで一度私たちの目を地上から天体に向けてみましょう。ルイ・ヴィエルヌ作曲の、後期フランスロマン派の幻想的なオルガンの響きをお楽しみください。
◎ VI 天球の音楽
 宇宙が響いているということは文学に於いても表現されてきました。シェイクスピア(1564-1616)は「ヴェニスの商人」の中で「星が歌い、人間の霊魂も音楽を奏でる」と言及しています。ゲーテ(1749-1832)は「ファウスト」の中で、天上の大天使ラファエルに「昔のままの節博士で、同胞の星の群と、日は合唱の音を立てている。(太陽は昔より変わることなく、兄弟のような星の群れたちと歌を歌いあっている。)」と神の栄光を現す台詞として賛美させています。明治時代にイギリス文学とドイツ文学を翻訳した坪内逍遥と森鴎外の訳で、ゲーテとシェイクスピアが文学において言及した「天球の音楽」を松本喜臣氏の朗読を通して、ぜひ心に響かせてください。

第三章 永遠なるもの
◎ VII ウパニシャッド
 ウパニシャッドは、インド思想の土台であるヒンズー教の聖典ヴェーダを構成する重要な一部分です。宇宙の真理や人間の本質が壮大に語られますが、その中より人間(可視)の存在と天の存在(不可視)を結びつける言葉を引用して本作品のテキストとしました。
 「太陽の中にある精神」は、「ブラフマン」という言葉で表されます。「ブラフマン」は、元々は「ことば」で、「呪文」「呪力を持った賛歌」や「祈りの句」という意味合いを持っていました。そこから「創造の根源の言葉」、「聖なる知識」と解釈され、「宇宙の根源の力」とみなされるようになりました。ここでも、「ことば」、「音」が「神」「創造者」「宇宙を支配する原理」という存在につながってきます。
 「人間の中にある精神」は、「アートマン」を表しています。「アートマン」は「息」という意味を持っています。古代インドのサンスクリット語は東へ西へ、言語・思想に大きな影響を及ぼしていますが、ドイツ語では今でも「息」は「Atem(アーテム)」、「息をする」という動詞は「atmen(アートメン)」ということばを使っています。この「息」という言葉から、「アートマン」は「自己自身」「霊魂」といった「個体を支配する原理」とされるようになりました。
 しかし、「ブラフマン」と「アートマン」、「太陽の中にある精神」と「人間の中にある精神」、「宇宙を支配する原理」と「個体を支配する原理」、「神」と「私」、「音」と「息」。これがただ一つの精神であって、そのほかのものは存在しない、とは???
 ……もちろん、この場で論じきれるテーマではありません。人間が数千年の歴史の中で模索し、思案し、瞑想し、論究してきたことです。でも私たちは今宵の旅=キャラバンで、いろいろな世界に立ち寄ってきました。世界は言によって創られ、森羅万象は歌を歌い、宇宙は響いています。宇宙根源の力は音であり、音である響きは調和を求めます。これらの響きは私たちの耳に直接聴こえるものではないでしょう。しかし、私たち人間も心の調和を求めて生きている筈です。自分自身の調和。家族、社会の調和や民族間、地球世界の調和。自然との調和。宇宙との調和…。私たちが心の中に内なる響きを知り、生きとし生けるものとの響き合いを感じ取り、そして地上だけではなく見えないものとの調和が起こるそこに、全ての存在が響きあって存在できる「世界の調和」、があり得るのかも知れません。
「浄土即ち遠からず」「此の身即ち仏なり」(白隠禅師「坐禅和讃」より)
◎ VIII 昇天
 オリヴィエ・メシアンはパリの聖三位一体教会でオルガニストをしながら創作、教育、演奏活動に携わった音楽家です。経験なカトリック教徒で、彼の作品は「神学的音楽」とも呼ばれるほどです。本日演奏される作品は「主の昇天」と題された4つの作品から成り立つ組曲の中の一曲です。
 「IV森羅万象」でヨハネによる福音の冒頭を聴きましたが、ここで聴いた通り神の子イエス・キリストは、地上に人間として生まれました。その後イエス・キリストは十字架刑に処せられ、埋葬されますが、3日後に死者のうちから復活し、40日後に昇天し、神の右に座するとされています。これは、神の子が人類全体の罪を負い、自身を犠牲として十字架上で捧げることにより神と人間の間の「唯一の仲介者(1テモテ 2,5)」となり、人がこの世を去っても永遠の愛である神のもとへと戻ることができるという信仰です。そして「昇天」とは、キリストが肉体と霊魂を持ったまま天に昇ったということ、「神の右の座に着いた」ということは、人間として神の栄光の状態に上げられたということを意味します。「キリストの栄光を自らのものとした魂の歓喜の高まり」は、「私たちに先駆けて天の栄光に入られたキリストに倣って、いつか彼とともに(注=永遠のいのちうちに)いることができるという希望*4」への歓喜です。
◎ IX 永遠なるもの
 作曲技法の一つに「フーガ」というものがあります。主題を複数の声部が模倣しながら追いかけるものですが、声部が多くなったり模倣の方法が複雑になるにつれて、ひたすら調和を求めるためには非常に難解なパズルのようになります。
 バッハは生涯を通してフーガの技術を極めた作曲家ですが、本公演の最後に演奏される「フーガの技法」は、バッハが晩年に創作したもので、音楽史上対位法作品の中でもとりわけ卓越した技法(知性)と芸術的価値(感性)を備えている作品集であり、人類が残した音楽芸術作品最高峰の一つでもあると言えるでしょう。
 しかしその中でも14曲目の4重フーガが未完成のままとなっています。未完成であるということは、作曲者の意図が永遠に不明のままであるということでもありますが、後世の人間が想像力を結集して創造を続ける挑戦の機会が永遠にあるということにもなります。
 今回は、未完のままで演奏を終えることも考えましたが、先人が残した遺産を私たちが受け継ぎ、次の世代へつなげるという意味も込めて、現在のところ入手可能な完成補作版の中でバッハの理論と音楽言語に最も近く理にかなっていると考えられるトーマス・ユング版を演奏し、これからも続く人間の祈りと創造の旅について想いを馳せて頂きたいと思います。

*1実松克義著「マヤ文明 聖なる時間の書」 p.316-317 現代書林、2000
*2 同書 p.353
*3 同書 p.324
*4 カトリック中央協議会HP http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/memo/shoten.htm 検索日2016年9月8日
参考文献
ヨアヒム・エルンスト・ベーレンド 著 大島かおり 訳 「ナーダ・ブラフマー、世界は音」 人文書院、1986